森元首相とわきまえる文化

朝のNHKのニュースで森元首相の女性蔑視の発言への非難が集まっていることを報道していた。

「わきまえる」女性という言葉への波紋が広がっている。

日本では男女を問わず、「わきまえる」ことを無言の圧力で強要をされてきた。女性やマイノリティはもちろんのこと、男性であっても上の言うことに異を唱えることには強烈な圧力がかかる。

私は社会人をリクルートでスタートした。社員皆経営者主義を掲げた当時のリクルートでは新入社員ですら闊達な意見を求められ、向こう水な意見すらも言える土壌があった。

そんな企業風土で育った私は他の会社の人と仕事をすると何かにつけてわきまえることを求められることに未だに馴染めない。わきまえない物言いが問題になることもあり苦労をする。

人は多様性を持つが、弱いもの、マイノリティなものがわきまえることを強要されることで、多様な意見がでなくなり、硬直化するのは自明の理である。

縦社会を是正もしないで、多様性への対応と自由な発想のような果実のみを求める経営者のお話を聞いて、やれやれと思うこともしばしばである。

人材輩出企業と呼ばれた会社はその風土が多様性を許容する仕組みを支えていた。

今のように多様性を許容することに舵を切った時代に森元首相が時代遅れてある感は否めない。

65歳、70歳の先輩方と話をして、ハラスメントがダメという新しい常識が理解できている人は実はとても少数ではないかと思う。加齢により新しい概念を受け入れることができなくなる人が少なくはない。

彼はそもそも多様性という概念がなかった世代である。時代遅れなのは彼だけのせいでもない。引き際だけの問題のように思う。

やはり高齢者が権力を持ち続けることが老害になりやすい。

歳の取り方は様々だが、周囲を見ていると以前なら優秀だった方が加齢によりリーダーとしての判断に向かなくなってくるのをよく見る。

自分が高齢になる時には、衰えは衰えとして受け入れて、その時に自分ができることをやるようにしたいと改めて思う。