怨念の正体

最近、何度か生霊とも呼べる人の怨念による影響を垣間見ることがあった。かなり、ヘビーなものだ。

人間関係をもてば、揉めたり、こじれたりすることはある。さらには他人事に巻き込まれることすらある。

念の強い人というのはいるようで、本人の感情の爆発がそのまま私の体調に影響を出すぐらいの人もいた。いきなり頭痛がするくらいの勢いで。さらには全身の倦怠感と気が奪われる感覚。全くパワーが上がらない。

瞬発的な憑依なら取ってしまえば良いが、継続的に行われるとたまらない。通常、怒りをもったとしてもそれを持続するのは難しいことから、長期化することは稀であろうと高をくくっていたのだが、必ずしもそうではないようだ。

いくつかの事例を考察してみると愛憎が関わるといきなり話が厄介になるように思える。特に好きだ嫌いだの内で好きの方だ。怨念の正体はやはりこの愛憎ではないかと思える。

可愛さ余って憎さ百倍とはよく言ったものである。相手を憎からず想っている所にそれが満たされない場合、特に念の強いタイプの人は大変である。多分、本人は悪気はないか、自分にそんな力はないと思って呪ってしまうのだろう。

自分の力を自覚してやっている人がいないとは限らないが、頭の片隅にでも罪悪感が存在する人ならやがて自分の墓穴を掘ることになる。結局は呪詛である。本人への返しもあるはずだ。

愛着の記憶というものは厄介であるが、それがなければ人は生きてはいけない。ただ、断ち切れば良いわけではない。依存性の高いものほど人とって重要だったりする。

記憶屋という映画をみた。つらい記憶に耐えかねる人が記憶屋に記憶を消してもらうお話だ。考えさせられるテーマだ。

人生は体験のコレクションゲームのような所があり、自我そのものが体験と感情の記憶でできている。ケースバイケースではあるが、相手の記憶がなくなる、相手から自分の記憶がなくなるというのは自我そのものの一部を失うことで大きな痛みをともなう。そこに良い悪いはないが。

愛憎のもつれでは、出会わなければよかった、自分から相手の記憶がなくなれば良いのにと思うことはある。

つらかったことも含めてその相手に出会えて良かったと思えるなら、その記憶は大切にしたいものだ。たとえ、思い通りに行かなかったとしても。

やがて死とともに現世の記憶はなくなるだろう、その前に認知力の低下で多くのものを失うかもしれない。また、悟ってしまうと多くのこだわりは失われる。人の完成形がどんなものかはわからないが、もしかするとボケ老人がそうなのかもしれない。自我に対する執着も失われてしまうだろうから。

ときどき思う。悟りきった人に近いのはサイコパスとボケ老人とどちらなのだろうかと。まだ当分は、私は悟らなくとも良い気がする。

私もまた全く自我から抜けられず、愛着で苦しんでしまう未完成な男である。浮世で苦しみの中でいくらかの喜びを感じる方が良さそうだ。

とはいえ、愛憎のもつれのとばっちりで、関係ないのに巻き込まれて、生霊を飛ばされるのは勘弁してほしい。