グータラ気功師になる

あれは20代の半ばを過ぎた頃、会社の先輩が面白い人に会わせるというので中央線の武蔵小金井の日中の開店前のスナックまで数人で行った。

その場所を借りて、初めて師匠から気功教室を受講した。気功というものを説明を受け、親戚で気になる人の名前を書けというので、紙に小学生の時に亡くなった父方の祖母の名前を書いた。師匠が「悪くなっているね、これが悪霊化した邪気というものだ」と私に紙に手をかざすように促す。すると私はぞっとするような気配を感じた。

祖母はアルツハイマーだったせいか、死因は自殺であった。今で言う鬱病にもなっていたに違いない。その気配は私にも手に感じるようなぞっとするものだった。師匠はその場で浄霊の作法を行い、祖母の気配が温かいものに変るのも私は確認できた。

師匠の教える気功術というものは、健康教室で行う気功体操ではなく、呪術的な術を含んだ仙道気功であった。それ以降、私は他の同僚の気功教室の生徒と比べても明確で微細にわかるようになっていった。

師匠の指導により、気のコントロールと仙道のいろいろな作法を教わった。私にとっても、さまざまなことを教えてくれた良い師匠であったが、残念なことにしばらくして連絡が取れなくなった。

その後にはレイキアチューンメントもティーチャーズディグリーまで受けたので、レイキマスターにもなる。誰にでも伝授可能なインスタントヒーリング術であるレイキが効果のあるものであることは、気の感覚がある私には一目瞭然だった。

ただ、気を見分けることができるのとできないのでは、使い勝手が全然違う。
残念なことに、レイキヒーリングを商売にしていくことは私にはできなかった。自分の感覚としては、これらがとても良いモノだとは実感をしていた。

しかし、身近な人も含めて、それを信じられない人からは非難を受ける。それをどう説明をしたらいいのかわからなかった。人は自分がわからないものは納得はしないものだ。

目が見える人には色の説明は簡単だ、しかしたとえば視覚障害の人に色の説明をしても理解は難しい。私自身だって、もともとは見えないものは信じず、科学を万能と思えという戦後の洗脳文化の中で育った口だ。

自分で感じるようになるまでは、科学で証明できないものなど信じないと言っていた。今は、自分が感じるのだから、信じざるをえないと思っている。

実は気の感覚は特別な人のものではない。少し訓練をすれば、多くの人が感じることができる。それは師匠の気功教室をした時に実証済みだ。もちろん、訓練をしている時だけで、その後に感じなくなる人も少なくはなかった。個人差や才能があるのもまた確かだ。

今であればわかるのだが、私は人から否定されることに強いトラウマがあったと思う。幼少時代から、良い子でいなければならないと思って生きてきた。そのため、他人から後ろ指を指されることを大っぴらにはできないと思っていた。

実際今でもごく親しい人の方が、むしろ辛辣に非難をしてくる。全くの赤の他人に比べると言いやすいのだ。こればかりは慣れない。

そして、私は身の回りの人で、それを信じてくれる人の相談にだけ、気功術やリーディング、ヒーリングを使うグータラ気功師になったのだ。