議論の意味

ある時に気づいたことがある。
私は自分の立場、正当性、正義を闇雲に守るために延々と不毛な戦いに時間をかけてきたがそれは全く意味がないのだと。orz

友人と哲学的なテーマで話をする時でも、何が正しく、何が正しくないかという二元論に基づいて議論を戦わし、それが楽しくもあり、また全くお互いが理解しあえないという不毛さも感じてきた。
人は自我というフィルターにより、現実というストーリー(幻想)の中を生きると考えると、人それぞれにまったく違った現実がある。
その世界同士には全く相いれない異形の現実というものがあり、言葉でそれをすり合わせようにも元々違ったものを突き合わせるので全く意味をなさない。

自我(エゴ)は世界というものを共有していると考えており、自分の世界こそが唯一無二の世界であり、皆がその世界を生きていると理解をしている。
それは共有の正義とか真実があると思っている。ところが、たぶん実際はそんなものはない。

裁判やディベートなど、現実の中で自分の立場を守るために議論をすることに、少なくともストーリーの中では意味がある。
しかし、他人同士が生きる世界の正しさを求めて、議論を戦わせることにまったく意味はないことになる。

私はいったい何をしたくて、正しさを求め、人と議論を戦わしてきたのだろうか。orz