行き当たりばったりで良いのだ

夕食に何を食べようかと道を歩いていた時のことである。「どうしたらいいんだろう。」といういつもの想いがやってくる。意味合いとしては、「どうすれば最適なものにいきつくか」「どうすれば失敗しないのか」「どうあるのが幸せなのか」などである。私はずっと延々とその思考に悩まされてきた。

その時にインスピレーションは語る「 何もしなくてよい 」。別に食べなくていいとかではない。(笑)戦略的に、戦術的に、最短ルートで、効率的に計画をして実行をしなくても良いという意味であろう。「目の前に現れたものから選べばよい」ということだ。それは行き当たりばったりで構わないということになる。

道を歩いていて、店の看板を見て、食べたいと思ったなら食べればいい。至極簡単なことである。今どきは、スマホを使って、周囲の索敵をして、ターゲットを決めて、強襲する日時を決め、最短ルートで移動をするのが流行りではある。だが、適当に道を歩いていても行くべきところに行きつくのであれば、あまり余分なことを心配と共に考える必要などない。

私は子供の頃から行き当たりばったりな傾向があり、周囲からはもっと考えろ、とか用意周到にしなさい、などと言われ続けて、それが悪いことであり、私はそれがダメなのだという自己否定の源泉にもなっていた。それをインスピレーションは良いという。

もっと言ってしまうと、起きることは勝手に起きており、自分が選択をしていること自体が幻想だと思うところすらある。人生とは選択肢があるように見えるだけの一本道であると私は考えているのだ。それはイスラムのインシャアッラーである。すべては何者かにお任せをすればいい訳ではあるが、なかなか自我はそう納得してくれるわけもない。

だから、せめて目の前にお鉢が回ってきたらそれを取るか、流すかは自分で決める程度の認識でいるのが一番折り合いがつく。実は、それも幻想に過ぎないのだが。