才能について

才能について考えさせられたのは息子達が幼い時だった。彼らを観察する事で、才能の本質と言うものを教えられた気がした。

生き物好きの子供たちは幼い時から虫取りなどに明け暮れていた。海に行けば魚を取る。小学生の時にヤスを使わせた時である。正直、私はヤスで魚がうまく取れた試しはない。私が幼い時、親父は運動神経が良かったが、北陸の海でそんなに大きな魚が取れた事がなく、ましてや運動音痴の私はそんな道具で魚など取れなかった。だから、小学生の息子たちに魚など大して取れないだろうと鷹を括っていた。

九州の恐るべき御影の濃さにより、私でも必死になったら4〜5cmのカワハギは取れた。だが、予想に反して息子達はもっと大きな魚をとっていた。私は道具の基本的な使い方しか教えられなかった。自分で学び取り、小学生のうちに十分なサイズのアラカブ(カサゴ)や、軽く30cmを超えるクロダイやボラなどが取れたこともある。1年に数日行くだけの海水浴だ。海の近所に住んで年に何十日も練習できるのとは訳が違う。あんなのが取れる事自体、私には理解できない。お前らの前世は漁師なんかい?とツッコミたくなるぐらいだ。なにも教えなくとも幼少期からできてしまうのは才能である。

私は受験勉強を必死にやってそれなりの大学に滑り込んではいるが、記憶力が全くの苦手。人の顔と名前や電話番号など全く覚えられない。営業マンにはマジ向いてない。学生時代も記憶科目など本当に困った。しかし、息子はまるで映像のように記憶するらしく、少し見ると覚えてしまう。あんな事は逆立ちしても私はできない。本人はそんな事は普通でしょと言って、それが才能だとは思わないらしい。

才能とは何の苦もなくでき、自分は当たり前でたいした事はないと思う所に隠れているのだ。人は自分の視点でしか、経験を積めず、自分が簡単にできることは人もできると思いがちだが、それでは自分の才能を理解はできない。

よく小さな子供が音楽やスポーツで誰からも教えられることなく、驚きのパフォーマンスができてしまうことがあるが、前世で同じことの経験を積んだのかもしれない。覚えてなくとも昔取った杵柄であればできて当然なのだろう。息子の魚取りを見てそう思ったものだ。

才能には2種類あるのではないかと思う。ひとつは誰から教えられることなく上手にできてしまうこと、もうひとつはそれを苦もなく長い間やり続けられることである。前者と後者が揃えば、長い間に研鑽を積んで真の巨匠に育っていく。しかし、両方の才能が揃うのもまた稀である。

野球のイチロー選手はうまくできるだけではなく、故障などすることも少なく、ひたすらに研鑽を積んで引退までを無事にやり遂げた。あれはすごいと思う。野球の才能がある人は甲子園やプロに行ける人なら十二分にあっただろう。しかし、長年やり続けることはそれ以上に難しい。

世の中ではマネタライズしやすい才能のみを才能と呼ぶ傾向がある。しかし、自分が当たり前だと思う中に才能はある。本来はマネタライズのし易さとは関係はない。苦もなく人にはできないことができるのは才能だし、人が苦にすることを苦もなくやり続けられることもまた才能だ。

手先が器用だとか、苦もなく話したり、文章が書ける、人に気を使うことができる、人が気づかない事に気づくなど、ちょっとしたことが実は才能である。また、そう言う才能を適材適所に当てはめることができるのが本当の意味でのリーダーの才能だったりする。

今の流行りは人を汎用品の歯車やネジ扱いし、適性を考えずにマニュアルに従わせ、十把一絡げにしてぶちこんで使うようにしている。これはあまりにも不効率である。エゴと言うのは自分自身の価値を感じるがために、他人をジャンク扱い、無意味扱いしたいものだ。

自分も他人も向き不向きがあり、それぞれに才能があることを知って関わり合えば、実はもっと合理的な世界になると思うのだ。

芸術やスポーツの分野では才能がある者は幼少期から発現すると信じる人がいるが、私はそうは思わない。スポーツの分野では体力の問題があり、60歳で発現しても、難しい問題はあるが、芸術などは年齢は関係ないと思う。今までやってなかったが、年寄りの手習いに寄って才能が発現することはあると思うのだ。だから、年齢を言い訳にしてチャレンジしないのはもったいないことになる。そもそも、50歳、60歳、70歳で新しい事に挑戦できる事自体もある種才能ではないかと思う。

自分の才能に目を向けよう。自分では大したことはないと思うことの中にも、人がいいねと喜んでくれることがあるはずだ。そして、人には何らかの才能がある。マネタライズしやすいとは限らないかもしれない。それでも、要素を分解して組み立て直すと役にたつことはあるはずだ。

自分が楽しいこと、もしくは苦にならないこと、ついやってしまうようなことの中に才能は隠れてる。ただ、才能というものは人によって持ち合わせているものは違う。さらにはやってみないとあるかどうかがわからない。だから、とにかくいろんなことをやってみることである。

特に若い人は様々な実体験をすることだ。バーチャルよりも実体験の方がよい。百聞は一見にしかず、見るよりはやってみる方がよい。ゲームはいくら画面に仮想世界が映っても、やっていることは指でボタンを押しているだけである。ゲーム業界に身を置いたこともあり、あれはあれで良い所はあると重々知っているが若者には実体験をする妨げになっている感は否めない。あれはもっとお年寄りになってからやっても良いのだ。(笑)