グローバルスタンダードのなれの果て

息子の通学に使う自転車が調子がおかしいという。1か月ぐらい前に後部チェーンが噛みこんで自転車屋で分解して修理したというが、まだなんかおかしいという。

私は自宅に帰っていたので、確認をすると使用に耐えないほど危険なレベルにあって驚いた。後部のギヤが妙な形で動く。本来は固定されているべきものだ。いつ事故を起こしても不思議ではない。

購入とメンテナンスをした某有名チェーンに怒鳴り込んだ。修理した時の固定がおかしいぞ、殺す気か?と。子供のこととなると私は血の気が多くなる。

若い店員が来て確認をすると、シャフトにヒビが入っている可能性があると説明を受けた。私としては既に修理時にも症状があったのではないかと思う。なぜなら、後部のチェーンがギアに噛みこんで分解が必要というのは、そもそもが歪が出ていた証拠である。それを見逃すのはプロ失格だ。

ただ、それを言い出しても水掛け論になる、即入院で修理をする方向で確認をしてもらった。すると、数日後来た回答は2か月かかるという話だった。通学用で2か月は待てない。

以前に個人経営の自転車屋のジイサンに聞いたことがある。チェーン店は素人に毛が生えたようなバイトが対応するので、簡単な修理はできるが、部品からリムとハブをくみ上げるような芸当はできないという。それはすべてメーカーの工場に発注することになる。その時もチェーン店が2ヵ月かかると言われた修理を数日で直してもらった。

効率化のために、マニュアル化、非正規雇用化が進んだ弊害である。人材を使い捨てにする事でコストを抑えた結果、一人一人のもつ技術の低下が目に余る。バイトではプロとは呼べない。

それは社会システム自体の劣化に他ならない。

今どきは、その辺の飲食店でも、工場で途中加工したものをフライパンやオーブンで最終加工をするだけだ。あれを料理とは呼ばず、処理だと思う。彼らは調理人ではなく言われた指示だけするバイト(作業員)である。

グローバルスタンダードは日本の徒弟制度的な人を育てる仕組みを一気にぶっ潰した。人を育てている暇などないし、人など交換可能な部品として、マニュアル仕事をさせるだけの兵隊としてしまった。まるで、自分の足を食うタコである。

昔であれば、どこのレストランの調理人もうまい下手はあるが、基本的な料理はできたし、時計屋は時計を自分で直せたし、自転車屋は部品から自転車をくみ上げた。自動車屋でも壊れたらブロックパーツ丸ごと交換でなく、修理をする技術と知識をもっていた。

こんなことでは、近い将来には日本国内から技術という技術がなくなる。

道具を器用にマニュアル通りに使えることがえらいとされる昨今、その道具は誰が作るのだろうか。

グローバルスタンダードというアメリカの勝手な論理に乗せられて、目の前の利益を求めるのはいいが、少し先の将来を考えている大人がどのくらいいるのだろうか。

今の世界は、安かろう悪かろうと許す世界ではあるが、安全にかかわる部分まで劣化してしまっては将来が思いやられる。

そんな世界を作ってしまったのは、何もできてなかった大人である私自身の責任でもあると反省をした次第である。また、それが嫌であるならば、お高い自転車屋に行けばいいという話でもある。安全にかかわる部分はそれも重要だ。

この話には後日談がある。若い店員が対応した時は新しい自転車を買うしかなかった。買いに行った時に年配の店員に事情を説明をすると、その自転車の専用部品であれば、工場での組み立てに2か月かかるが、汎用品なら1週間程度で修理可能と言われた。

リムやハブがカラーコーディネートされているので、専用部品は一から組むが、汎用品なら色違いにはなるが入手可能だ。学校に通えるのが優先事項である。すぐに修理を依頼した。

熟練をした担当者がいれば、引き出しにはいろんな手数の選択肢を持っている。プロ意識のないバイトにはこれがない。

個人差もあるので致し方がない部分もあるが、グローバルスタンダードのなれの果てには正直がっかりだ。