能天気に生きる

スマホやパソコンでついニュースのヘッドラインを見ると、危険な話、大変な話を探してしまう。コロナウイルスやワクチンの問題などはまさにそうである。そんな時に、インスピレーションがやってきた。

不足の証拠を探さなければいいのだと。

この世界はお約束として有限であり、不足の世界である。生まれて五感で感じ、人から聞く内容は、限りのある世界を奪い合う構図にしか見えない。人生というストーリーの舞台となるこの世界は、設定として”不足”なのだ。

自我がその人の世界を創り出している。だから、不足の世界を作り出すには自我は不足の証拠を探し続ける必要がある。習性として自我は常に不足の証拠を探して、その設定を強化していく。

この世界のバックヤードは自我(無意識)が無限の選択肢から選びだすものを見せるという意味では、実は無限である。それは普段我々からは見えないようになっているが、もし自我が不足を追いかけないようになるとそれが垣間見えてしまうかもしれない。それではストーリーが台無しになる。不足の世界での体験をしに我々はここにいる。

この世界では時間の経過とともに、エントロピーは増大し、自由度が上がっていく。その結果は、死ぬ、壊れる、分解する、拡散することで、自由になる。ゲームの中でいる限りはこれから逃れることはできない。全てのものは有限である。そして、人は死が怖い。エントロピーの増大は恐怖の対象だ。

俯瞰した時に、人生というストーリーはこの世界に生きるという幻想である。精一杯生きれば、どこで寿命として死が訪れてもなんの問題もなく、それは単なる予定調和である。折り込み済みなのだ。なんの心配することも、問題視することでもない。

どの道をすすめば生き残れるのか、どうやったらうまくいくのか、ワクチンは打った方が良いのか悪いのか。結果は運による。

もちろん、そんなに簡単に割り切れるわけもない。だが、心配などしても何も良いことはない。自分にできる範囲のこと、自分に回ってきたお鉢をとれば、それで十分なのだ。心配するタネとなるニュースを探して、ここが不足の世界であることを確認することは不安になって運気を下げるだけだ。

こんなこと、一般の社会で威張って言える話ではない。少なくとも、社会では未来を予測して、自分の行動で未来を変えよと言われる。成り行き任せにすると当事者意識がないと叱られる。実際には未来など正しく予測できないのにだ。一瞬先は闇でしかなく、見通せるものではない。

心配のタネを集めて、悩んで、暗くなって、運を落とすようなことは実に馬鹿げている。運のよい人には運が良いなりの、運が悪い人には運が悪い人なりの現象がやってくる。それは誰にも経験はあるものだ。

能天気に、明るく、心配などしないで流れにまかせて生きたいものだ。

私がうまくできるわけでは決してないのだが。(笑)