「仏だけ徒歩」 東京事変

東京事変、椎名林檎の楽曲、「仏だけ徒歩」について、解釈をしてみる。

椎名林檎はアルバム「三毒史」をリリースした頃、NHKのSONGSでこんなことを言っていた。「若造といわれた自分たちも悟りについて語ってもよい年齢になってきたので、悟りについての思うところを表現してみた。」三毒史では「鶏と蛇と豚」で三毒(貪瞋痴)について表現をした。

「仏だけ徒歩」では根底には「苦しみを体験することで気づきを得、悟りがやってくる。不遇だと言われる氷河期世代だからこそ、悟りへの道が近いのでは?」という主張をしている。

「仏だけ徒歩」は「ほとけだけとほ」と回文になっており、椎名林檎特有の悪ふざけも入りつつ、仏教的な深い理解のもとで歌詞が意味深く作られている。

彼女自身もバブル崩壊の影響を受け、苦汁を舐めた氷河期世代に含まれる。氷河期世代は社会に振り回され苦しい目を耐え続けてきたことが、その分だけ悟りに至るのにアドバンテージがあるのかも。彼女はデビューから社会風刺色の濃いメガホンマイクで歌うようなパンクロック音楽をやってきたが、批判を言うだけでなく、社会を支える側の世代としてこの作品では悟りについて語っている。

いつか何者にかならないといけないと思い頑張っている人も、何者にもなる必要はなく、誰もが一人で自分自身の人生を生きているのだから、誰から何を言われようとも自分の道を進んで悟れば良い。

苦しい目に遭い続けた氷河期世代だからこそ、ふと目を閉じたらそこにある静寂があり、涅槃の境地に入ってしまうかもよ?

歌詞の中で、永平寺と深大寺が出てくる。永平寺は東京から行くのが大変な福井県にある曹洞宗の大本山である。それに対して、深大寺は調布市にある天台宗の別格本山であり、ライトにインスタントに行ける。旧世代が苦労して静寂の中で悟りを得るに対して、氷河期世代はアクセス良く悟りをものにすることを対比で表現しているのでしょう。ここで、なぜ曹洞宗のもう一つの大本山であるアクセスのよい川崎の総持寺が対比に入らなかったのか。これは読み仮名4文字の総持寺がテンポに乗らなかったのではないかと私は思う。永平寺と深大寺は5文字です。

ローパ、ドーサ、モーハは貪・瞋・痴(貪り・怒り・愚かさ)であるが、椎名林檎はそれを真我が従えることで悟りがなると考えている。それは椎名林檎はアルバム「三毒史」の「鶏と蛇と豚」のMVのラストシーンで描かれた構図そのものである。彼女は貪瞋痴の三毒について、悟りに至るためのキーワードだというこだわりをもっているようだ。